忖度でわかれる、余計なことをする人、必要とされる人
日本には「阿吽の呼吸」「以心伝心」といった素晴らしい言葉がある。
「阿吽の呼吸だね」とか「以心伝心だね」なんて会話をしたことが少なからずあると思うし、そういう時は相手と心が通じ合っていることがわかって心地よく感じるものだと思う。
ところが、よく似た意味の「忖度」に関しては、ここのところめっきりよろしくないイメージになってしまった。
阿吽の呼吸は、お互いの間合いが自然と合うこと。
以心伝心は、お互いが言葉にしなくても伝わること。
忖度は、相手の気持ちを推しはかること。
実は、忖度がずれていると、阿吽の呼吸も以心伝心も成り立たない。忖度はとても重要な立ち位置なのだ。
自分への気づきが浅いと他人の気持ちはわからない。知識が偏っていると広い視点で見ることができない。自分の心配ばかりしていると言動が自己中心的になる。
よって、忖度しているつもりが、相手が望まぬ、余計なお世話になってしまう。
人は基本的には優しいので、忖度がずれていても笑って流してくれる。だから、本人は良いことをしているつもりのままで、よほどの忠告をしてくれる人が現れない限り、何より自分自身が聞く耳を持たない限り、ずれていることには永遠に気づけない。
忖度がずれている人に関わる人が多くなればなるほど、取り返しのつかないことになりかねないのは報道の知るところだし、そのせいでよろしくないイメージの言葉になってしまった。
外へ求めても何も変わらないが、自分への気づきが深まれば深まるほど、自分自身が楽になり、助かる人や笑顔になる人も増える。人を傷つけずに済む。
幸せになりたいのならば、大切にしたい人がいるならば、救いたい人がいるならば、誰かに救いを求めるのではなく自分自身の気づきをを深めることに尽きる。すると、さまざまなことが相手目線で考えられるようになり、余計なことをする人ではなく、必要とされる人になる。
わたしもですね、うちのお猫様の目つきもしくは「にゃー」が何を求めているのかがんばって忖度していますが、なかなか噛み合いません。以心伝心になりたい‼︎