“勘”は、何でもわかった気になって落ちぶれていくきっかけになり得る気を抜けないもの
前回「”勘”は意図的に磨くことができる」という記事を書いた。
人の表情のみならず、声だけでも、感情や考えていること、本人も気づいていないことまでわかってしまうことが多々ある。というか、自分でも恐ろしいほどわかる。最近は、その人に意識を合わせるだけでわかることも増えてきた。
それは、私に特別な生まれ持った能力があるから。
・・・ではなく、前回の記事に書いた通り、何度も何度もトライ&エラーしながら、客観的に分析して改善して磨いてきた、忍耐と勇気と客観性さえあれば、誰でも磨くことができる”勘”だ。
コーチやカウンセラー同士で話していると、この勘についてはそれなりに盛り上がるトピックでもあるし、何でもわかった気になって傲慢になり、落ちぶれていくきっかけになり得る気を抜けないものでもある。
そして、この勘はご披露できない場面の方が多い。
答えをその場で言うことが相手のためにならないことの方が多く(多分、98%くらいは言わないでいる)、大抵はずいぶん後になって、そして「今だ!!」という絶妙なタイミングを見計って、引き出しから引っ張り出してきて言うことの方が多い。
その「今だ!」だって、同じように何度も何度もトライ&エラーしながら、客観的に分析して改善して磨いてきた勘。
このタイミングを見計る勘を磨く過程、わかっているのに言えないもどかしさは、己に打ち勝つための修行だった。
言うべきではないのに言いたい時は、声が喉で止まる感覚があったり、モヤモヤしたりして、それでも言ってしまった時はさらに後味が悪いし、相手のためにならないし、後悔するし、それなのに言いたい気持ちが消滅するのに3年ほどかかった。
言いたい気持ちを掘り下げてみると、そのほとんどが「私がわかってるって、相手にわからせたい」という自己顕示欲とか支配欲みたいなもの。これもまた、自分と向き合ってきた同業者とはとても盛り上がるトピック。
そんなものが動機になっている間は、自分の価値を下げるし、薄っぺらいし、薄っぺらい人同士でしかつるめない。だから、がんばって修行して良かったと心から思っている。
この場合の、勘を磨く為の三代要素は、自分の至らなさを言語化する客観性、それを受け止める勇気、ひつこく気づきと修正を繰り返す忍耐です。よくがんばった。
とはいえ、あれだけ修行したのに、今もムクっと顔を出すことは年に一度くらい(にしておこう(笑))あるのだけれど。