神様仏様は信じていない

信心深い方には怒られてしまうかもしれないけれど、神様仏様は信じていない。

以前は、よくわからなかったから畏れ多いものみたいに思っていたし、すがりたい時期もあったけれど、色々な経験を経てたどり着いた答え。

とはいえ、説明のしようがない非科学的な体験を少なからずしているから、何かがあるのだと思ってはいる。

だから、信じていないというよりも、すがる気がないという方が近いのかもしれない。

あとは神のみぞ知る!という心境になることはあるけど、それは自分では操作のしょうがない選択や努力の結果を神様の意向だと片付けて自分を納得させているだけだし、

人の家や会社に神棚や仏壇があると手を合わせるけど、それは相手が大切にしているものを私も大切にしたいからであって神様仏様にではないし、

墓参りに毎月行くのは、自分と対話することで謙虚な気持ちになれるからであって、大好きな人たちがそこにいるとは思っていない。

占いだって、同じ結果を見てもその日の気分や状況で、当たったとか当たらないとか、ドキっとしたり喜んだりするんだから、信じる信じないではなくて、自分と対話するツールにすればとても意味のあるものになると思う。

結局は自分の捉え方次第だから、どっちでもいいと思ってる。

人前でうっかりお守りやその類のものをゴミ箱に捨てようすると必ず驚かれる。「ちゃんと神社に持っていきなよ」と。

ティッシュは何も考えずにゴミ箱に捨てるのに、どうしてお守りはダメって思うんだろう。同じ”物”なのに、その信念はなんなんだろう。この小さなものをゴミ箱に捨てたらバチが当たって、神社に納めれば神様は怒らないとか思っているんだろうか。

・・・とか考えてしまう。(相手が信じていることを否定する気も戦う気もないから、わかったと言って後でこっそり捨てる)

ところで、今年に入って2箇所も同時に怪我をした。

痛みでしんどくなってきたら、なんと、「厄年かな」と自動反応のごとく考えていて!何だか感心してしまった。文化や習慣や教育でつちかわれたものって、自分が信じているかどうかに関わらず、こんなにも無意識に自動反応するんだなと。

自動反応に飲み込まれていたら、厄年かもしれないと要らぬ不安を抱いて、無意識に行動を制限することになっていたかもしれない。さらに何かが起きて「ほらやっぱり!」と厄年に信念を持ったかもしれない。他にも痛い箇所が増えてもっとしんどくなったら、お祓いに行った方がいいかななんて考えるかもしれない。

少しの痛みで、知らぬ間にかなりのエネルギーを使う。体の痛みを抱えて生きている人は、本当に本当に大変だろうし、藁にもすがる思いにもなるだろうと思う。

そこにつけ込む人と、すがる人がいるのは、大昔から変わらぬ人の業。

神様仏様は、自分の人生を左右するものではなくて、自分にはどうにもできないことを委ねることで、先の見えない不安や行き場のない思いを納得させて、生きるための希望に変えるための存在なんだろうな。

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