曾我兄弟の仇討ち(wiki情報)

2日目に曾我兄弟の墓を見に行ったので、友人用に曾我兄弟のまとめをwikiから拝借して読みやすくまとめました。

小田原〜箱根をめぐる3泊4日の旅。2日目は箱根歴史めぐり

曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。

所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。

祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。

その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。

祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。

文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。

箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。

兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください」と祈請した。この時、兄弟が詠んだ和歌が伝えられている。

ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我十郎祐成

天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我五郎箱王丸

祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。あなたたちに引き出物をあげましょう」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経が木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)。別当は「これらの刀は見知っている人も多かろう。くれぐれも「箱根の別当から与えられた」とは言いなさるな。仇討ちが成功した時に「あの別当が兄弟に刀を与えたのだ」と騒がれては大変じゃからの。京の町で買ったとでも言っておきなさい」と二人に言った。二人が去る時間になると、別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言い、そこで和歌を詠んだ。

夢ならで またも逢ふべき 身ならねば 見るおもかげに 袖朽ちぬべし ― 箱根の別当

建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した小舎人の五郎丸によって取り押さえられた。

翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。

事件の余波

この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修禅寺に幽閉され、のちに暗殺されたとも自害したとも伝えられている。

また、この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある。

頼朝暗殺未遂説

工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親襲撃自体に頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経の後援者が頼朝であったことを知っていたとする説もある。

曽我物語

この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。

ゆかりの地・行事

静岡県富士地域の地方新聞である富士ニュース5月21日号(掲載年不明)によれば関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるという。曾我兄弟の墓は現在、願成寺 (横浜市)の無縁仏の一群の横にひっそりと置かれている。

曾我兄弟の墓とされるものの中で有力とされるものに、曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)が挙げられる。城前寺の由来は、曾我兄弟の死後に叔父の宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている。建久4年(1193年)5月28日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年5月28日に、城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが、2011年に寺側からの申し出により中止となり、保存会が駅前や公園など市内各所で関連行事を続行している。

曾我祐成を討った仁田忠常の陣屋が置かれたという静岡県富士宮市の曽我八幡宮東側の丘の上にも、祐成が討たれたとされる地点に曾我兄弟の墓が建てられている。1295年(永仁3年)成立だが、現存する五輪塔は江戸時代のものを復元している。

鹿児島市では毎年7月に郷中教育の一環として、曾我兄弟の仇討ちの故事に倣い、和傘を燃やす「曽我どんの傘焼き」を開催している。

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